当ってくだけろ アメリカ陸軍日系二世部隊の壮絶な戦い

アメリカ合衆国は400年ほどの歴史を持っていますが、アメリカ軍史上もっとも多くの勲章を受けた部隊をご存じでしょうか
意外かもしれませんが、ハワイの日系人部隊、通称「第442連隊戦闘団」なんです。

1941年の真珠湾攻撃を皮切りに日本とアメリカは戦争に突入することになりますが
戦争がはじまるとアメリカ国内の日系人への風当たりはとたんに強くなり、財産を没収されたうえで、
強制収容所に収容されました。
怒りと屈辱の中、アメリカの日系人は自分たちがアメリカ人ということを証明するため、祖国と自分の家族を
救うために兵隊として志願することになります。
ハワイの日系二世で編成された第100歩兵大隊が誕生し、更に翌年に強制収容所で志願兵を加えて編成した
第442連隊戦闘団が誕生しました。


第442連隊戦闘団は、周りから差別の目で見られ、ヨーロッパ戦線で投入された当初は「弾除け」としか見られず、
最前線に配置されたのですが、これが逆に功を奏しました。彼らは何よりも戦果が欲しかったのですから…
Go for broke!のモットーの元、死を恐れない勇敢な戦闘を数々こなし激戦地モンテ・カッシーノで勝利をあげ、ローマ解放の
原動力となります。

程なくしてボージュの森でテキサス大隊211名がドイツ軍に包囲されていたという情報が届きます。
そこで、ルーズベルト大統領から直接救出命令が下り、ボージュの森でドイツ軍と激しい戦闘をした末、
テキサス大隊211名を救出することになります。しかし、第442連隊戦闘団はその4倍の死傷者を出し、
割り合わない結果となります。これは有名なスピルバーグの映画「プライベート・ライアン」のモチーフ
にもなっています
ちなみにですが「カラテキッド」に登場するミヤギ先生もこの第442連隊に所属していたという描写が
でてきます。

この戦闘は後にアメリカ陸軍の十大戦闘に数えられるようになりました。

第442連隊戦闘団はイタリア戦線に呼び戻され、ドイツ軍最後の防衛線「ゴシックライン」に投入されました。
そこは、2個師団が半年かけても落とせなかった難攻不落の防衛線だったのですが、第442連隊戦闘団はわずか30分で
落とすという名実ともに最強であることを示しました。

その後、終戦を迎え、ワシントンに凱旋した442連隊の表彰式が行われ、
トルーマン大統領は連隊を直接出迎え、「君たちは敵と戦っただけでなく、偏見と戦い、そして勝った。この戦いを続ければ、
常に万民が幸福であれ、と憲法でうたうこの偉大な共和国が、幸福の象徴としてありつづけるだろう」と称えました。
大統領から直接出迎えられた米軍部隊は、第442連隊戦闘団だけでした。
しかし終戦後もアメリカ白人の日系人への人種差別に基づく偏見は変わらなかったといいます。
部隊の解散後、アメリカの故郷へ復員した兵士たちも、
白人住民から敵視・蔑視に晒され、仕事につくこともできず財産や家も失われたままの状態に置かれました。

しかし、日系人はその勤勉さと教育熱心さで経済的にも成功した者が多く、戦後も粘り強くその地位を向上させていきました。
1960年代の公民権運動の後、人種差別政策が次々と撤廃され、日系人は「模範的マイノリティー」と賞賛されるようになります。
ヨーロッパ戦線の活躍により現在のアメリカ陸軍では、第442連隊戦闘団の歴史と忠誠心を学ぶ授業は必修課程となっています。

ダニエル・イノウエ氏も第442連隊戦闘団で戦い生き残った1人で、最後はアメリカの上院議員でもあった人ですが、
2012年彼が亡くなられた際、オバマ大統領は「真の英雄を失った」と声明を発表し、
遺体を納めた棺がアメリカ合衆国議会議事堂中央にある大広間に安置され、追悼式典が開かれました。
このような異例の待遇が取られたのは彼が合衆国史上32人目で、大広間に遺体が安置されるのは

エイブラハム・リンカーンジョンFケネディなど一部大統領や、ごく少数の議員に限られておりアジア系としては初だったそうです。